VoiceOfUTokyo 東大の声

民主左翼同盟(DLUT)中央執行委員会が発行する革命的・進歩的学生の機関誌

【特集】東大における現代学生運動と、「党派」について:「日共vs中核」のいま、ふりかえる(Part1)

今回から3回にわたりシリーズで、「党派」間抗争に関しての特集をお送りする。昨年10月以来、日共と中核派が睨み合う情勢となったことを受け、学内の党派抗争を振り返り、現代的総括としたい。第1回は、『そもそもいかなる学内党派がいたのか』をテーマとする。

1.はじめに

4月10日、「東大の民主主義を守る会(以下「守る会」という。)」なる団体が「UT-Comet」なる団体に対し「中核派が構成員にいる」という理由で関わるなとの趣旨のビラを机上配布した。そして、同26日、「UT-Comet」が「守る会」を日本共産党系であるとして、反論するビラを机上配布するとともにTwitterに公開した。当該ビラで引用されていた「某A氏の資料庫(2013)」と、ビラ研究会の展示からして、また、内容が日本共産党の対新左翼主張通りであることからして「守る会」が“代々木”(*1)だということは間違いないだろう。一方で、「UT-Comet」=「東京大学教育問題研究会」(以下「教問研」という。)は、昨年9月下旬から長期間立て看板を掲出したが、主張内容的に中核派の主張に沿っていること、また第一回企画が作部羊平氏による講演を行っており、また教問研の広報物からしても中核派に関連のある人物が存在するのではないかと考えられる。

ともかく、今回の状況は、中核派が学内に姿を表し、日共系勢力がそれを阻止せんと党派抗争を行なっているという状況であろう。長らく学内で公然政治活動を行う党派が事実上日共のみだったことを考えると大きな変化といえよう。というわけで、ポスト東大闘争の時代を中心に、学内政治党派抗争について振り返る特集を行うこととしたい。

*1:日共は党本部の所在地からたまに“代々木”と称される。ご存知かと思うが念のため。ちなみにこれも周知かと思うが、中核派は主に革マル派から旧本部の所在地から“ブクロ”と称される。

 

2.東大学内における党派抗争

始めに断っておくと、本記事は学内における党派の動きに注目して書いたものであるため、出来事を党派性の観点で捉えている。ある意味その他の要素を捨象した雑な見方ではあるものの、現代において何をなすべきかという現在的課題について考える上で、このような見方は必要であると考える。

 

2.1.党派の勢力関係

今の感覚からは信じられないだろうが、新制大学となったばかりの頃、学生の大多数が左翼で、主に日本共産党支持であった時代があった(*2)。というのも、数年前まで大学は戦争遂行の国策に迎合し、学生は学徒動員させられて戦場に送られて多くの者が「お国のために」死んでいき、あるいは、教授らも、人文社会科学系であれば日本帝国主義を正当化したり、理工系であれば軍事研究を行い(*3)、また九大のように医学部関係者が非人道的な生体解剖を行った事例もある。そのように、学問研究の場が、「皇国の正義の戦」のために使われ、そして学友が「花と散」らされていったのである。学生以外にも日本で、アジアで多くの人民が日本帝国主義により殺された。何が「あゝ万世の大君に水漬き草生す忠烈の誓致さん秋到る」だ、やはり戦争に大義などないではないか!戦争推進の大学教授だって戦犯じゃないか。戦犯教授追放!ーー戦争による社会の破滅を経て、「砲火潜り進んだ」者としてそのように「血と灰を思い起こせ」と、「平和にいどむ力を砕け」と問題意識が芽生えたのだ。さらには、天皇ヒロヒト人間宣言なるものをしながら、皇居には大量に食糧があるというではないか(川島、1994)。まさに「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」という状況だった。こんな犯罪国家をこれ以上存続させてたまるか、という意思が社会にあった時代があったのだ。

当然、合法化された日本共産党日本民主青年同盟(旧日本青年共産同盟、日本民主青年団)が学内に存在しており、駒場寮内に拠点も存在していた。スターリン批判やハンガリー動乱などを経て、スターリン主義=「一国社会主義」、労働者階級よりも共産党を上に置く姿勢への疑問が左翼内に生じ、日共の路線との対立から新左翼が登場した。

1968年〜1969年は医学部学生不当処分問題をきっかけに東大闘争が闘われており、最も戦闘的な役割を果たした東大全共闘には新左翼諸派が結集していた。安田講堂に「中核」「反帝学評」「フロント」「革マル」の旗が掲げられている写真は有名だろう(*4)。東大闘争後は、日共=民青が学内セクトとしては最大規模となり、教養学部学生自治会(以下「東C自治会」という。)や全学組織である東京大学学生自治会中央委員会(以下「中央委員会」を特に断りのない場合東京大学学生自治会中央委員会の略称として用いる。)など、学生自治組織において影響力を持つようになった。後述するが、2012年までは東C自治会は日共系全学連全日本学生自治会総連合)にも加盟していた。ポスト東大闘争においては中核派の活動があまり観測されない。一方で、革マル派は2000年代頃までクラス入り(*5)を行なっており、また、2010年頃まで学内拠点も有していた。社青同解放派駒場寮が存在していた頃は学内にサークルなどを有しており、革マルとの党派抗争を行なっていた(*6)。ノンセクトの活動も1980年代より目立つようになる。文理研(*7)も「社会科学研究会」などの学内サークルを有しており、また、駒場ノンセクトは、本郷の文学部学友会という自治会組織の担い手となる人材を多く輩出していた。しかし、駒場寮廃寮とともにノンセクト勢力は文理研も含めて衰退する。駒場での運動の衰退により、本郷の運動も消失し、本郷において学生自治活動を行う自治会組織は存在しない状況となっている。現在において学内の政治活動といえば、駒場がほとんどで、基本的に日本共産党が民青ないし「日本共産党を応援する東大生の会」名義でビラを学内掲示板に貼ったり、机上配布したり、たまに立て看板を出したりしているのが中心であり、まれに有志学生による小規模な何らかの運動(*8)が起こる。駒場においては教養学部前期課程の自治会、東C自治会は現存するが、後期課程の自治会は消滅した。後述するが2012年以降日共はもはや東C自治会における組織的な影響を失ったものとみられる。

 

*2:そもそもその頃の左翼党派といえば「講座派」の日本共産党と「労農派」の流れを継ぐ社会主義協会日本社会党くらいだったのだが。

*3:東大においては第二工学部などがそうであり、また、いくつかの国立大学で理化学研究所などと共同で原爆開発も研究されていた(ウラン濃縮技術の問題で成功しなかったが)。

*4:何しろ三鷹国際学生宿舎生委員会のTwitterアカウント (@new_msc20161108) のアイコンにされているほどだ。

*5:授業前に教室で演説などをすること。

*6:東大駒場で起きた内ゲバ殺人は全て解放派革マルである。

*7:2016年に出現した同名組織とは直接関係のあるものではないと思われる。

*8:そこそこ長いこと活動実態があったものとしては2016年登場の文理研など。

 

Part1 参考資料

日本共産党,東大駒場キャンパス内活動拠点消滅へ(2013)』、某A氏の資料庫、最終確認日:2018年5月1日

URL:k1662.blog.jp/archives/22398385.html

川島高峰(1994) 戦後民主化における秩序意識の形成 天皇システムと戦後デモクラシー 政治学年報『ナショナリズムの現在/戦後日本の政治』 岩波書店(1994.12)、135-151頁

 

第2回『東大闘争から東C自治会全学連脱退まで』続く