VoiceOfUTokyo 東大の声

民主左翼同盟(DLUT)中央執行委員会が発行する革命的・進歩的学生の機関誌

【特集】東大における現代学生運動と、「党派」について:「日共vs中核」のいま、ふりかえる(Part2)

第1回『そもそもいかなる学内党派がいたのか』こちら

第2回のテーマは、『東大闘争から東C自治会全学連脱退まで』。

2.2.2000年代までの党派の学内での動き

東大闘争時の話は多くの本も出ていることなので、ここでは大まかにしか述べない。詳細を知りたい方は、本を読んでいただければと思う。通史としては『安田講堂 1968‐1969』、理念的なところは『私の1960年代』があげられる。大まかな流れとしては、医学部や文学部の不当処分を受け、1968年より全共闘を中心に全学ストに突入するも、加藤総長代行を筆頭とする当局と主に日共=民青の学生などを中心に、「紛争収束」に向けた動きとして、東大確認書(*9)が総長と七学部(自治会)代表との間で締結される。しかし、全共闘からしては東大の抱える現在的・歴史的問題点が解決しないままであり、その状況下で、加藤総長代行は機動隊の導入による収束を企図し、安田講堂封鎖解除翌日、政府の意向に従い入試中止を受け入れた。尚、民青史観として「(民青や)普通の学生は学園暴力を許さずに要求実現のために運動してきたのだ」という主張があるが、だとすると、「あかつき行動隊」「民主化棒」は一体なんなのだろうということになる。日共は「民主化棒」として角材などを持ち、「あかつき行動隊」と呼ばれる部隊に持たせて他セクトを襲撃させていたが、それがゲバ棒を持ってゲバ部隊が襲撃したことと一体何が違うというのか・・・ご存知ない方は、上にあげた本や『突破者』(宮崎、1996)などを読んでみると良いだろう。

東大闘争時はフロント系執行部だった東C自治会も、民青系執行部となる。そして、大学当局は、懐柔のため、中央委員会も公認することになるが、確認書に参加した七学部と中央委員会は民青の影響下になる。

その東C自治会であるが、1984年7月〜12月においては、非民青系の執行部が存在した。七夕(84年6月選挙)・クリスマス(84年12月選挙)・紫陽花選対(85年6月選挙)(*10)である。七夕選対で選出された常任委員には民青もいたが、ノンセクトなど様々な勢力から構成され、この執行部の特徴としては、自治会活動の新しい形での、参加を重視した発展を模索していたということがある。この自治会執行部に対し、民青は、「民青東大教養学部班」の名義により、

勝共連合「七夕・クリスマス」と(中略)謀略的連合戦線をはった

・(七夕選対の「非民青系勢力の結集」という発言について)反共分裂主義である

・(「参加の拡大」に向けた取り組みについて)要求実現の事実上の否定

・(「桑の実」(*11)襲撃事件時の当時の自治会正副委員長の対応が緩いといった上で)暴力を擁護する

とレッテルばりを行った(学生新聞社、1986(*12))。こういうこと書いてると弊同盟も近いうちに「守る会」に「DLUTは暴力を肯定する反共のニセ左翼暴力集団にして隠れ原理!」とか書かれてしまうのだろうか。確かに紫陽花選対には隠れ原理が存在したようである。

一方で、紫陽花選対の執行部自体の求心力低下は事実である。この紫陽花選対の選挙時、得票数が以前と比べ少なく、当時の学生は「雨が降ったから」選挙に行かなかったと述べている。しかし、これは悪天候で足が遠のくほど求心力が低下したということである。教養学部前期課程は2年で人が入れ替わるが、七夕選対から紫陽花選対への継承性に難があったといえよう。

駒場においては、民青以外の党派は、サークル攻防を行っていた。社会科学研究会などには革マル派がいたが、殺人を伴う内ゲバを経て解放派が影響力を持つようになったが、その後駒場ノンセクトの文理研が影響力を持つようになる。

一方で、文学部においては駒場寮の文理研出身のノンセクトなどが自治会執行部に影響力を持つ。東大闘争後のものとしては100周年反対闘争がある。趣旨としては、東大闘争における「大学解体」と似ているが、「戦争に加担した歴史を見据えず、ただ『100年』というだけで過去すべてを賛美するかのように記念するなどナンセンス!」との問題意識による。文学部においては、文学部アーケード事件というものが起こった。これは、学内でデモ行進していた民青に対し野次を飛ばした学生に対し、民青の自治会役員が、暴行を働いたものである。これを受けて、民青は文学部自治会の執行部で力を失う。

文学部の自治会組織、文学部学友会は1990年代まで残り、1989年には天皇ヒロヒト死去に伴う弔旗掲揚阻止闘争を行っている。

東C自治会も、1988年には弔意強要反対の決議が代議員大会(*13)で上がっている。

ノンセクト系自治会が徹底討論原則を主張したのに対し、日共系自治会は、議会重視の政策を取った。日共系自治会も、要求実現においては、一定の成果(教養学部においては全教室空調設置、携帯電話電波改善、成績原評価閲覧の無償化・簡略化など)がある。しかしながら、90年代以降、本郷の自治会や中央委員会は消滅したり、ノンポリ化した互助団体化するなどの変化が起きる。

1991年より、教養学部当局などが駒場寮廃寮に向け動き出し、当然駒場寮自治会は反対運動に乗り出す。東C自治会執行部と寮自治会が当初は対立など(『三鷹国際学生宿舎』構想についてなど、紆余曲折を経つつ、最終的には東C自治会も反対の立場で一致する。廃寮阻止闘争においてはノンセクトが様々な方法で駒場残留により闘争に参加し、その影響で文学部学友会などへの人材供給が止まり、文学部学友会も消滅する。2001年8月22日、強制執行により駒場寮は廃寮となる。廃寮とともに駒場ノンセクトも壊滅する。

以降、自治会組織として残ったのは、東C自治会くらいということになる。駒場寮廃寮以降、学内の「ノンポリ」化はより一層進んだ。すなわち学内の政治的活動が衰退し、また、学内の「政治的」表現への嫌悪感が出るようになった。世論の政治への無関心と呼応する形で、政治表現をしないのが普通という認識が強まった、

2010年には、東C自治会においても「活動の停滞」を理由に、しかし背景は人間関係のいざこざにより解散提案が代議員大会に出される。しかし、これは否決される。

 

*9:東C自治会がそのWebサイト( www.todaijichikai.org/kakunin.html )に掲載している。尚、「東大紛争」の語を用いているのは、確認書締結に参加した側の立場であることによる。

*10:当時の東C自治会は、現在と違い、正副自治委員長(現在の正副自治会長に相当)の選挙と同時に執行部たる常任委員会(現在の理事会に相当)が決定していた。

*11:駒場寮における日共の拠点。

*12:ちなみに同資料中、「勝共連合=原理研から東大の自治と自由、学生生活を守る会」なる組織の広報物が引用されている。現「守る会」は「20年くらい前から活動していた」としているが。

*13:当時の議決機関。

 

2.3.東C自治会日共系全学連脱退・日共学内拠点失陥

東C自治会の日共系全学連脱退については、その趣意はともかく、出来事としては有名である。2012年より、東C自治会執行部は日共による党派的支配の歴史を訴え始め、春には全学連の東京都内組織である都学連(東京都学生自治会総連合)主催の長年参加してきた新フェス(*14)への東C自治会としての不参加を決定、6月には全学連脱退が代議員大会で決議される。これに際し、全学連や自治会の元役員が、また日共は「日本共産党東京都委員会」などの名義で自治会執行部や、前年に自治委員長で全学連脱退を主張していた何ろく氏を非難するビラや立て看板を学内に出した。特に何氏に対しては、実名での非難(*15)を行なっていたが、教養学部等事務部学生支援課からのクレームを受け、実名から「A氏」という表現に改める。都学連の関係者でも、東C自治会執行部への攻撃的姿勢の者がいた。

全学連脱退や党派的支配の暴露の趣旨としては、学生の代表たる執行部の決定よりも党派の指導が押し付けられる状況、そしてそれ故に硬直した運動となっていることを主にあげた。一方で、日共都委員会などは、党派的支配など行なっていない、日共は東大における要求実現のために役割を果たしてきた、党派支配というのは思想信条の排除だと主張した。

ここで、2012年当時の東C自治会執行部が、学生の意思よりも党の指示が優先されるような党派的支配を問題とする一方、執行部から民青を排除すべきではないと強調していたことは重要である。実際、2011年以前も、非党員の学生は執行部に存在したし、2012年以降も民青の活動家が執行部に入ることはここ最近まで問題視されてこなかった。党派に属する者の存在と、党派が党の方針を自治会執行部に押し付けることとは別であるという認識であり、2016年5月の規約改正時(*16)及び2017年の活動方針においてもそのような趣旨は一応表明されている。一方で、学内世論全体を見ると必ずしもそのような認識ではなく、すなわち、「2012年の全学連脱退は民青の排除のためだったのだ」、あるいは「東C自治会は“学生運動と決別した”」といったような認識が一部に広まっており、党派観、あるいは学生運動観の失われた今、2012年全学連脱退の意義の継承はそうたやすくはないようだ。

2013年1月には日共=民青の事実上の拠点であったキャンパスプラザB109を、事実上日共のダミーサークルだった「平和研究会」「青空の会」の部室取り上げにより失陥した(某A氏の資料庫、2013)。これは部室使用申請書の学友会への提出が遅れたためであるが、当初日共は立ち退きを拒み、学友会に対して損害賠償請求も辞さないとしていた(同)。しかし、何ろく氏などが講義等や学館の掲示板でビラによる反論を行い、最終的に退去することとなった。

拠点失陥後も教室借用などにより、民青の学内での活動自体は継続している。

*14:新入生歓迎フェスティバル。昔は4月末〜5月頭にここで新入生がクラス模擬店をやっていた。都学連加盟の東京学芸大、東京農工大なども参加。

*15:こちらも参照されたい。

*16:2016年5月9日実施の第132期自治委員会第1回会議「第2号議案」趣旨説明において、「さて、この規約改正は、学外の政党や党派に属している自治会員を、学外の政党や党派に属していることを理由に 学生自治会の運営から締め出すことを目的としているのではありません。学外の政党・党派属する者であっても、 その者が自治会員であれば、学外の政党・党派に属さない自治会員と同じように、学生自治会のサービスを享受し学 生自治会の運営に参画する権利が保障されるべきです。私たちが問題視しているのは、学外の政党・党派に属する者 が学生自治会の運営に参画することではなく、学外の政党・党派に属する者が自らの思想・利益のために学生自治会 を私物化することです。ですから、規約の改正後も、学外の政党・党派に属する者を学生自治会の運営から締め出すことは絶対にありません。学外の政党・党派に属する自治会員が、立て看板・机上ビラ配布等の手段によって表現の自由を行使することを、彼らの思想・信条を理由に制限することも絶対にありません。規約の改正は、あくまで「学生自治会の私物化」を防ぐためのものであるということを強調いたします。」との記述がある。また、2017年1月6日実施の第134期自治委員会第3回会議「第1号議案」においても、「勿論 特定の思想を有するだけで自治会運営から排除することは、多様な考えに基づく自治会運営の否認であり、また言論 や思想の自由を最大限保障すべき自治会としてあるまじき行為であるため、これもまた行わないと明言します。」との記述がある。

 

Part2 参考資料

安田講堂 19681969』島泰三、2005年

『突破者』宮崎学、1996年

『東大における反共主義とのたたかい』日本共産党東大教養学部支部委員会・日本民主青年同盟東大教養学部班委員会学生新聞社、1986年

確認書、東京大学教養学部学生自治会、最終確認日:2018年5月5日

URL:www.todaijichikai.org/kakunin.html

ぶさよでぃっくの大学自治会体験(2012)、togetter まとめ、最終確認日:2018年5月5日

URL:togetter.com/li/316442

キャンプラB109問題の総括、某A氏の資料庫、最終確認日:2018年5月5日

URL:k1662.blog.jp/archives/22786163.html

東京大学教養学部学生自治会 第132期自治委員会第1回会議 議案書(2016)

東京大学教養学部学生自治会 第134期自治委員会第1回会議 議案書(2017)



第3回『現代に改めて党派を考える』に続く。